脚立の日記

きゃたつのにっき

秋も好き。

今週のお題「紅葉」

 

高1の夏休み前に仲良くなって、それからはほぼ毎日のように一緒に過ごしていた女友達が、高2になったある日、

 

「えー!!友達の中で、私が一番大切じゃないの??」

 

と、私に向かって,大きな声で言った。その鮮明な記憶がある。

 

どんな話の流れから、そう言われたのかは忘れてしまったけれど、彼女を真正面にとらえた映像から始まるこの出来事は、今でもよく覚えている。

 

私は心の中で、大切だよ。だけど、、、と思った。

でも実は、なぜか彼女の言っていることが、私には今一つピンときていなかった。

そして、

「みんな、大切だよ」

と、ありのままの気持ちを返答じたら、その友達の横顔が歪んだ。

でもその時、私の中でも、

バリバリっという音が聞こえて、何かから引きはがされてしまっていた。

一度引きはがされたら、それはもう、二度と元に戻らなかった。

 

無意識。無自覚。

その瞬間までは私自身が、何というか、思いやりそのものだったんだ。

でも、友達のその言葉で、私のモノの見方が増えて、そのことに気が付いてしまった。

思いやりって、私が選んだ誰か、特定の個人に対して、意図的に持つ感情なんだってことを初めて意識した。

一度意識したら、もう元には戻れなかった。進むしかなかった。

私は、思いやりそのものではなくなった。

私は、思いやりを使えるようになった。

 

やがて青春時代は終わり、私は結婚して子供を二人産んだ。

そこで初めて、守る、という感情を知った。

それまでは、無防備だった。自分と他人を分ける感覚が薄かった。

でも、自分の子供が生まれたら、とたんに色々なものに順位が付いた。

 

娘が三歳で、息子が生れたばかりの頃、お隣に小学校二年生と三歳の姉妹が住んでいて、よく一緒に遊んでいた。

ある日、その姉妹が我が家に遊びに来て、ひとしきり楽しく過ごした後に、お姉ちゃんの方が突然、私の真正面に立って、

「この4人の中で、誰が一番好き?」

と、私を見上げた。

四つ歳の離れた年長者である姉という立場は、幼いといえども色々と大変なんだな、、、と思った。

けれど正直、なんでそんな当然のこと聞いてくるんだろうと、返答に困り、内心あきれてもいた。

そしてそれは、いつまでも消化されずに、後味の悪い感情としてしばらくの間、私の中に残った。

こうしてどんどん、私は、今までとは何かが違う感覚を抱えて生きるようになった。 

 今振り返ってわかるこの後味の悪さは、小学二年生のお姉ちゃんの思考回路に対してではなく、自分の思考回路の変化に対する違和感と嫌悪感だったんだな。

 

純粋って、強い。最強だ。

手放すのはもったいない。いつまでも手放さずにいられたらいいのに、とおもわず祈ってしまいそうになる。

でもそれは、いずれ必ず壊れる。

壊れたら次は、一から自分の意思で再構築していかなければならない。

それは想像以上にとても骨が折れる作業で、しかもその作業はたいてい生涯続く。

どう成長していけばいいのかは学校で習ったり、大人がうるさいほど語ったりするけれど、その先の、どのようにして歳を取って、さらに老いて行けばいいのかは、誰にとっても未知の領域、 未開の領地だ。

正解は無く、常に手探りで、完全に自分だけのデザイン。はじまりの時ほど、終わりはみんな一緒じゃない。

歳を取ること・老いを完成した人はここにはいないのだから、歳を取ること・老いを正しく教えられる人はいない。

 

今の私は確かに、あのころのような初期装備ゆえの最強さは失ったけれど、でも今度は、それを補うための柔軟さを手に入れつつあるんじゃないかなと思う。

なぜなら、純粋無垢な透明さが壊れるのは、必要不可欠で重要なプログラミングなんだ、と思えるようになったから。

壊れたからこそ、今までとは違う新しいカタチを見ることが出来る。

骨が折れる作業だけれど、そこには味わいがある。

 

その女友達とは、お互いに生活環境が変化して、以前のように頻繁には会わなくなったけれど、元気に暮らしていることは知っている。

感情豊かな彼女には、高校を卒業した後も続いた長い付き合いを通じて、本当に多くのことを学ばせてもらった。とてもとても感謝している。