脚立の日記

きゃたつのにっき

それは、開かれることのない本です。

今週のお題「読書の秋」

 

こんにちは。脚立です。

 

今日は、

未来的な場所に暮らすその人たちの持っている本は、開かれることがない。ということについて書こうと思います。

 

時々、ふっとしたきっかけで、見えるはずのないような映像を、昼間の現実のさなかに見ることがあります。

これもそうして見た映像の一つです。もう随分前のことです。

けっして、中二病がやめられないわけでは、ないんですよ。たぶん、本当に。。。

 

その(未来的に見える場所の)人たちのことは、「答えはボディハッキング」というタイトルでも書いたことがあります。

私たちとは、ちょっと違う暮らしぶりの人たちです。

彼らのコミュニケーション方法は、あえて言うなら無音です。テレパシーをも超えてしまっています。

彼らにとって、会話、ボディランゲージ、テレパシーなどの、他者とのコミュニケーションそのものが、重いのです。

なぜなら、お互いを、深く深く信頼しあっているからです。

互いの意思を伝えあい、確かめ合うコミュニケーションは、意味のないことなんです。信頼の意味が深いので、そこには警戒がまったくありません。

相手の警戒を解く必要がありません。なのでコミュニケーションは逆に重いことなのです。

それは、今の私たちにしてみたら、彼らはまるで、無視をしあっているように見えてしまいます。でも彼らにしたら、自分は完全に自由だし、そして他の人も完全に自由なんです。

自由は権利、という印象がまったくありません。とても穏やかで、あたたかい。それが彼らから感じる自由です。

そこには、一切の枠組みがありません。

なので静かで、ゆったりした空気感です。

気候も、精神も、安定しています。

いつでもリラックスしているので、人目を避けて建物の中で寛ぐというイメージがなく、むしろ大地に生える立派な樹木の足元に腰を下ろす事こそが、寛ぎだったりします。

そこは街中なのですが、でもその街路樹は地球の大地に生えているというより、そもそもその街全体が、どこかのスペースにある、というイメージなんです。

居住スペースは、建物という個々のものではなく、大きなひとつのスペースに、すべてが収まっているイメージです。

そこは都会と大自然が上手く融合した清々しい所です。

決して作り物のイミテーションではありませんが、でも、なんだかジオラマちっくには見えます。。。

どうしてかというと、生々しさがなく、とても理路整然としてすべてがシンプルに見えるからです。

 

この先を、もっと広く見ようとするのですが、それ以上視点を広げることが出来ず、狭い範囲に集中してしまって、そのまま映像の意味が固まっちゃうんです。

、、、私自身に理解力が足りないと、こうやってあいまいになってしまいます。

その映像に鮮明な情報がふんだんにあっても、溢れる情報量が私によって堰き止められてフン詰まってしまいます。

飲み込みたいのに飲み込めない状態になって、度々残念な思いをすることもあります。

 

彼らの住む場所では、人がその場に複数いて、たとえお互いが近くに接近したとしても、自分のペースは崩れません。

そして、

。。。彼らは手に何か持っているな、ああ、本なんだな。本を一冊、手に持っているんだな。あれ?でも、その本は開かれることがないのか。。。

 

それは、読むために持っているんじゃない、と伝わってきます。

でも、なんでだろう?それは、どういうことだろう?,,,と思って見ていると、

ああ、そうか。その本は、知性なんだな。と、わかります。 

後々になってから、それは私に理解しやすいように、本という形で見えたのかも、、、と感じました。

 

 その本(知性)は、実際には、それぞれの内側にあるんです。内在しています。

彼らの疑問は、質問として自分の内側に向けられます。

今の私たちのように、自分の解らないことをスマホやパソコンや書物などを通して答えを得ません。

自分の答えを自分の外に、他者を頼って他者の中に探す様なことはしません。

自分以外のものを、自分のために利用することがありません。他者を利用しません。

有り余るほどあふれる自分の内側から、答えを得ます。

なので疑問は無く、質問と答えがあります。

 質問と答えは揃って、自分の内側に存在しています。

なので、疑問や悩みというものはありません。

 

自分を知るのに、他者は必要ない。

自分の内側で、本は常に開かれている。

開かれない本、という象徴的な形には、もっと色々な意味があるのを感じます。

けれど今現在でも、まだ私自身は、それを100%理解することが出来ないままです。