死を悲しむのは、生きている証拠。
こんにちは。脚立です。
早速ですが、今日は、
人間が死を悲しむのは、生きている証拠。
ということについて、書こうと思います。
書くのに、ちょっと勇気が必要なのですが.。。。
私が今までに出会った死んでいる人たちは、誰一人として、生きている人間のような死の悲しみ方をしていませんでした。
会えなくて悲しい。
とか、
もう一度、会いたい。
とか、思う人はいません。 あちらからは、こちらがすっかり見えているのでしょうか?
こちらは、会いたいのに。まだ、ここに居てもらいたいのに。こちらからは、一切見えませんから。。。通常。
でももっと、私の本心をまっすぐ書くとすれば、
生きている人間が死を悲しむのは、生と死をすごく分けて考えているから。
死の悲しみは、生きている人間だけのもの、と思っています。
あちらから、なんやかやと相談されることもあったのですが、あちらの人はすぐ本題に入ってくるので、こちらから私に質問をさせてもらえる暇がありません。【あちら=死んでいる人】
結構相談してきます。あちらの人。。。
皆さん死んでしまうと、どうやら、死は、悲しいものではないようです。
でも、助言したい!、伝えたい、見守りたい、と思う人は沢山います。むしろこちらに助言したいから、見えっちゃったり、聞こえちゃったりするようです。
ただ、悪気がないのはわかっているのですが、正直言って、助言したい!と思う人って結構強烈で、生きていた時はこの人、ずいぶん過保護タイプだったんじゃないかな?と思わせる印象で、すごく押しが強くグイグイ来ます。
それから、いたずら好きも多いです。どういう訳か暇なのかわかりませんが、生きている人にちょっかい出したいみたいです。
死んでも、個性や性格の違いははっきりあります。
そうはいっても、死んだ人たちは、自分のことよりも、子供や孫やもう少し遠い所縁のある子孫のことを思っています。生きていることを、応援してくれています。本当に見返りなく。無償の愛、って感じです。
沢山はあったことはありませんが、すごく昔にちょっと順当とは言えない死に方をした人たちも、悲しいというより、苦しいことが思いの中心です。苦しい、っていうことから逃れたい、離れたい、どうにかしてほしいという気持ちが強いようです。
そういう苦しんでいる人の声って、聞こえても、心が開かれていなくって、私に向かって言っている感じがしません。え?それ今、私に言ったの?という感じです。
以前、私が引っ越すときに、
連れてってえ~。
と言われたこともあるんですが、連れていけるほど近くにいる感じがしませんでした。地面の奥深くから聞こえてくる感じです。
それに対して、上の方からだったり、私たちと同じような立ち位置にいて気持ちを伝えてくる人は、今の自分に納得している人たちのようです。
上とか横とかの見え方聞こえ方の違いは、それぞれの亡くなってからの日数によって違いがあるように思います。
亡くなって10年位だとはっきり見えるのですが、それ以上だと、雰囲気はわかるのですが、だんだん思っていることだけが、そこにあるようになってきます。
その人自身が、自分の姿かたちに思い入れが薄れてくるのか、思っていることや意識だけがその人そのものになるようです。
ようは、どうやって死んだかということより、死んだ自分に納得しているかどうかで違ってくるようです。いわゆる、過去より今ってことなんでしょうか?でもほとんどすべての人が、死んでみれば、生きていた時納得できなかったことも色々理解できるみたいで、しぜんと自分に納得がいくようです。どんな死に方をしても死んでまで苦しんでいる人って、そうそういません。どんな個性であろうと性格であろうと、みんなから優しい温かさを感じます。
そういうのを見ていて思うのは、もし苦しいことを抱えていたら、それを解決しようとするより先に、一度思い切って、その場で脱力しちゃうことかな?って感じます。解決しようとしすぎると苦しいことばかりが見えて、どんどん楽しい気持ちが先の方に遠のいてしまいます。
今までずっと変えずに思っていた事や、考えていた事を、少しだけ横にずらしてみたり、一瞬、手足を止めてみたり、そういうことが出来たらいいのかな?と思います。
死んでも苦しんでいる人って、苦しすぎて、こっちの言ってることが全然伝わらない感じです。溺れているときみたいに、です。
もしかして、日本に限らず世界中で、死んだ人をお経や讃美歌や民族楽器とかで送るのは、そのリズムや歌でふわふわっといい気分にさせようっていう思いからなのかな?
だとしたら、上手いこと出来てるな。。。