脚立の日記

きゃたつのにっき

私、実は死ぬのが楽しみなんです。...大丈夫!大丈夫!そういう意味ではありませんから!!

こんにちは。脚立です。

 

今日は、

 

実は私は、自分が死ぬことに対して、(わりと)ポジティブな印象を持っている、

 

ということについて、書こうと思います。

 

 最初からそうだったわけではなく、

 

色んな体験の積み重ねという下地はあったのですが、

 

特にある一つの出来事が転機となって、

 

その時からは、自分が死ぬことに対しての考えが、ポジティブ側に移行しました。

 

そうなると、結構生きるのが楽ちんに感じるようになりました。

 

悩みやめんどくさい事柄に遭遇することは、今も当然、しかも多々あるのですが、

 

それさえ、ちょっと楽しみなイベント的な感じで、捉えることができるようになりました。

 

すぐに解決しない!!ということに、ヤキモキする気持ちを、以前よりは調整しやすくなったな、と思います。

 

 その転機が私に訪れたのは、結婚してすぐ、女の子と男の子を三年間の間に産んで、訳も分からず怒涛の勢いで時間が流れていた時期でした。短期間に三回の引っ越しが続いたりして、今振り返っても気持ちに余裕はなかったように思います。

 

仕事は辞めていました。私の性格は、同時に二つのお鍋を火にかけられないのです。あっという間に、どちらかを焦がしてしまう。気付いた時にはもう真っっ黒、なんてことは何度も経験済みでした。

でもその時、心の底では、

「大丈夫。子供が大きくなってからでもまた何かを始められる。そのことを自分に証明しよう。」

という思いがありました。しかもそれは、私自身の思いというより、客観的にみているもうひとりの自分が言っているのを、私が聞いている、という感じでした。

 

当時、海辺の町に暮らしていました。

と言うと、ちょっとカッコよく聞こえたりしますが、住んでみると、部屋の中まで砂がジャリジャリ入ってきたり、塩害でよく停電するなど、それなりに大変なこともままありました。

  そんな環境なので、暮らしている人たちの気風も、そういうことを受け入れていける、のんびりしたところがありました。

そして海辺の町には、意外と公園がありません。

役所に問い合わせても、

「海!海!海がありますよー!」

と、海で遊ぶことを推奨されます。

でも、毎回砂浜で遊ぶわけにもいかないので、子供が幼稚園に行くようになると、降園後も、もてあますパワーを誰かの家に集まって発散させます。

その日は、5歳の娘・茶柱の同級生の秋斗君のお宅に、初めて呼ばれました。他にも親子数組が集まっていました。

この辺りの地主さんなので、お家には広い庭もありました。

 

部屋の中で子供たちはまったりおやつを食べ、ママたちはみんな、おしゃべりで盛り上がっています。

茶柱にも部屋でまったりしていてほしかったのですが、彼女は広い庭で蟻んこを観察中でした。

それを追って、2歳の弟・八兵衛も行こうとするので、さすがに子供だけにはできないので、私は大人の中で唯一、庭に出て行きました。

部屋の中から庭に出て、ガラス窓を閉めると、びっくりするほど空気が変わって静かでした。

「いいなあー、庭。」

と、植木を眺めながらぼんやりしていると、親子三人がその場に馴染めなさそうにしていると思ってくれたようで、秋斗ママも庭に出てきてくれました。

 しばらくすると、どうしたことか、秋斗ママの横に、急にどこからともなくすうううっと、透明人間が寄り添いました。

 

・・・

ごめんなさい。ごめんなさい。大丈夫です!

私の気は確かです!!

 

私の頭の中では、ちゃんと色付きの人間が見えているのですが、

私の目には、目の前の人間の、輪郭だけはっきりあって、他は透明に見えていました。

私はなぜか、この人は、秋斗ママのお母さんだと、あったこともなかったのですが、そう思いました。

お母さんは、秋斗ママの健康と幸せを心から見守り、願っている感じがしました。

さらに、私のことまで、驚かせないようにしたい、という優しく温かい配慮の気持ちが感じ取れました。

とても素敵な人でした。

こんなことは初めてだったのですが、なぜだか恐怖心もなく、見て、感じているものを、普通のことのように受け入れていました。

でも、その母と娘が隣同士に並んだのは、時間にしたらほんの一瞬のことでした。

お母さんと入れ替わるように秋斗ママは、急に用事を思い出して部屋の中に入って行ってしまいました。そうするとお母さんもまた、すっと、見えなくなりました。

 

その数か月後、また秋斗ママに誘われました。

今度は我が家三人だけでした。

そして私は思いっ切って、その時の話をしてみました。

気味悪がられそうで躊躇したのですが、それ以上に口がしゃべりたがってムズムズしたからです。

そうしたら秋斗ママが、

実は、お母さんは7年前に亡くなっていて、イタコみたいなことができる人はいないかなー?と思っていた、と言ったのです。

 

ごっごめんなさい、私にはできません!!

 

でも、この時思ったんです。

人間が死んだあと、そこに世界がなくてもあっても、ここより悪いってことはないんじゃないかなって。

もし自分が過酷な状況に居たら、他人にあんなに温かい気持ちを注ぐことは出来ないんじゃないかな?と思ったんです。そこには、こんな素敵な人がいるんだなって。

あんなに心地いい温かさに触れたら、死んで行く先のことは心配しなくても大丈夫なんだ、と思えました。

 

私が死ぬのは確実です。でもその先のことは心配しなくても幸せなところだ、と思えるようになると、普段色々と抱えている悩みや生きづらさも、不思議と自分の考え方に変化を感じられるようになりました。

でも、それはいっぺんにすぐ、というわけではありませんでした。徐々に、5歳の娘が20歳になるくらいは掛かってしまいました。

その間、行っては帰って、また行っては帰って、の繰り返しでした。

この転機は、そうやって何かあるたびに、何度も、何度も、私に、

 

大丈夫!!

 

と思わせてくれる出来事になりました。

 

大人になるって、こわいです。

今でも私はそう思っています。

でも、大丈夫、とも確かに思っています。

少食な僕は食べるのが嫌いなんじゃない。味わって食べてるから少しの量で充分なだけ。

 

 

こんにちは。脚立です。

 

 今日は、

 

息子・八兵衛にまつわる少食のあれこれ、

 

について書こうと思います。

 

 ということで、

 

上のタイトルを言ったのは、

 

そう、八兵衛本人です。

 

中学1年の終わり、ちょうど声変わりしたての頃です。

 

これを聞いた時、私はまさしく目からうろこでした。

 

ホント、そうだよねー!そういうことだよねー!

 

と、今までの自身の狼藉の数々を棚に上げ、

 

敵だったのに、急に味方にひるがえり、

 

私はいたく感心し、今までの非礼の数々を詫び、

 

片や、八兵衛は、穏やかにうなずき許してくれたのですが、それもつかの間、

 

だったら、もっと早くそう言ってよー!

 

と、母、豹変。

 

返す返すも、ホントすいません。

 

母の、焦りの悪循環が止まりません。

 

 

まだホンの小さい頃は、

 

ちょびちょび食べんなー、

 

と、思ってはいても、

 

私も大して気に留めていなかったのですが、

 

幼稚園に上がりだすと徐々に、なんでだろー?と気になりだしました。

 

さらに、小学生になった時には、

 

とうとう私の本格的な指導が入りました。

 

「もっとこう、バクバク食べなよー!!

 

一口一口が、少なすぎんだよー!!」

 

と、年がら年中、八兵衛の食べ方に口を出していました。

 

なぜなら、集団生活でのお弁当・給食が始まると、

 

時間内に食べられない!!ということが、

 

最初のつまずきになるからです。

 

当然、八兵衛は、給食終了後のボッチ飯の常連客でした。

 

クラスにもう一人、男の子の常連客がいて、

 

それが唯一の救いでした。

 

当時彼らの絆には、固いものがありました。

 

高校生になった今からすれば、こーんなこと、

 

つまずきでも何でもないのですが、

 

その頃は、担任の先生による家庭訪問や個人面談でも、

 

この『時間内に食べられない』

 

ということが、めっちゃ問題視されるのです。

 

私も、めっちゃ真正面からキャッチャーミットで受け止めました。

 

バシッと。

 

私は良い母、を意識しすぎちゃったんですよね。

 

八兵衛にではなく、外の先生とか、他の保護者の人とか、社会的な目の方に。

 

 すみません。

 

 

 でも、時間内に食べられないなんて些細なことを、

 

なんで問題視しちゃってたんだろう?

 

 

私はついこの前まで、まったく深く考えることもなく、

 

集団生活で、全員が時間内に物事を終えるのは、

 

すごく当たり前のことだと思っていたのですが、

 

先日、八兵衛の姉の茶柱が言っていたのです。

 

小学校の給食の時間は、20分だよ、と。

 

ぎょえー!!

 

なら、絶対無理だわ、八兵衛。

 

しかも、体操着からの着替えとか、

 

教室移動とかで時間はたいてい押す、とのこと。

 

そういえば、かつて、

 

「もっとゆっくり食べさせてあげたいんだけど…」

 

と、言ってくれた先生もいました。

 

私がその時、狼狽せずにいたら、

 

もっと、色々と受け止める気持ちになれたんだと思います。

 

 そうしたら、上のタイトルの言葉を、

 

中学一年生ではなく、小学一年生の八兵衛に、

 

言わせてあげることができたのだ、とあらためて思いました。

 

中学に上がってもまだ担任の先生に、

 

「栄養、足りてますかー?」

 

と、言われれたり、

 

同級生のお母さんに、

 

「八兵衛君、食べる量が小鳥並みだって?」

 

と聞かれ、

 

光合成で栄養補給してるみたいよー!!」

 

と返していたのですが、

 

度々続いたもんで、チョットうんざりきていて、

 

八兵衛相手に、

 

生まれてこのかたインフルになったこともなく、ずっと皆勤なのにねええ、

 

てやんでい!

 

と口をとがらせた私に、八兵衛が上のタイトルを言ったのでした。

 

そして、「味を味わってるから、量は問題じゃないんだよ。」って。

 

ガーン!!

 

この時、私の中で、大きく何かが変わりました。

 

自分に必要な量がわかっていて、

 

それを、大切に食べてるってことじゃンねえ。

 

そうか、そういうことかと、

 

私はこの時から、このお言葉を胸に、

 

今までに、何度も、何度も、何度も、座絶した、

 

厳しく険しいダイエット道の、遠い彼方に燦然ときらめく明星を目指し、

 

新たな一歩を踏み出し、突き進み始めたのであります。

 

めでたし、めでたし。

 

ということにしても、いいですか?八兵衛…。

 

 

 

 

 

 

 

 

分娩台で。

今週のお題「おかあさん」

 

 

こんにちは。脚立です。

 

初ブログです。

 

これからここには、「こんなことがあった。」という、

ただただシンプルなことを書いていきます。

 

 

さっそくなのですが、

 

脚立の娘が、もうすぐハタチになります。二十歳です。

 

私は初ブログだし、娘の茶柱は二十歳だし、

 

色々節目なので、茶柱を出産した時の、分娩台の上での出来事を書きたいと思います。

 

 

出産は、なにしろ初めてだったので、陣痛の痛さには相当焦りました。

 

 あまりの痛さに、

 

もう痛さにしか集中できません。

 

他のことはどうでもよくなります。

 

激痛に次ぐ激痛で、この先この痛さがどうなっていくのかまったくわからないまま、

痛さに翻弄され続け、激痛は時間を追うごとに、さらに底なし沼。

痛みは次々と激しい波になって私を簡単に飲み込む。本当に飲み込まれる。

陣痛は絶対王者でした。

 

出産予定日から二週間過ぎても陣痛が来なかったので、このままだと胎盤が劣化していくから産んじゃいましょうと出産の日が決められ、私は荷物を持って決められた日の朝に入院しに、病院へ行きました。

 

朝の10時ぐらいから処置が始まり、痛さは時間を追うごとに増していき、ずっとその痛さに耐えるばかりで肝心な赤ちゃんはなかなか生まれないのですが、必要な処置のために病室と診察室を何回も歩いて往復していました。

 

胎盤と子宮の間に、海藻入れたり、風船入れたりしていました。

 

万策尽きて、いよいよ促進剤が投入され、今までの痛さはホンの子供だましだったことに気が付きました。本物の陣痛の痛さは桁違いでした。

なのに、促進剤投入後もなんかいまいちだったので、赤ちゃんの包まれている袋をメスで突っつくかなんかして、破水を促すことになりました。

もうすぐ隠居かな?と思わせる風貌の院長が手にメスを持って、ちゃちゃっとやっていました。

 

実は!実は!それでもなかなかで、夜もずいぶん遅くなってから、二人の看護師さんに

「チョット来てくれる?」と、こっそり診察室に呼ばれました。

ここは個人病院で、その隠居院長と三人の看護師さんがオールスターキャストでした。

そして、その日の入院患者は私一人でした。

三人の看護師さんたちは、お孫さんもいる気の良いベテラン看護師さんで、皆さんが交代で作ってくれる日に三食の病院食は、相当おいしかったです。

 

その日の当直だった二人に呼ばれ、私は相変わらず激痛のままで、診察台の上で仰向けになりました。

私の足の方で、

「あ、やっぱり切れてない!」

「あ、ほんとだ、切っちゃおう」

と聞こえてきました。

そのことについて、あまり説明もされないまま、私は自分の病室に返された、のもつかの間、私にはさらに本物のヤツがきました。これが最後と思われるビッグウエーブです。

それからは目まぐるしく状況が変化して、とうとう子宮口が7センチだか10センチだか開いてきたというので、やっとのことで分娩台に上がることができました。

激痛の中、上向きで排便する感じです。

途中で看護師さんが、「旦那さん、手を握ってあげて!!」

と言ってくれましたが、こっちはそんな余裕全くないです。

「いい!!(いらない!!)」と遮って、分娩台の手すりを握りしめました。

ちなみに、旦那さんは立ち合い出産です。

茶柱の時も、三歳下の八兵衛の時も見ています。

旦那さんによると、赤ちゃんはどうやらスクリュウーして出てくるそうです。

 

茶柱が産声を上げたのは、結局夜中の一時過ぎで、日付が変わっていました。

出てくるギリギリまで、ずっと痛いままでした。

 

そして出産した直後、分娩台の上で私は、ただただ放心状態でいました。

 

実は、今回書こうと思ったことは、ここまで書いてきた出産のことではありません。

ここから先の、分娩台で私がホゲーっとなっていた時のことなのです。

 

分娩台で 出産した後、看護師さん二人は生まれたての赤ちゃんにかかりっきりで、妊婦さんは息んでいた体制のまま、しばらく放置プレーをくらいます。

何か布的なものをかけてくれる、とか言った配慮は一切ありません。

お母さんなんですから!といったところでしょうか?

 

これが個人病院ならまだいいんですけど、大学病院だの総合病院だのになると、それまで顔も見たこと無かった白衣を着たドクターな人たちが、どこからともなくワラワラ現れ、代わる代わるやってきては、私の足元にまわり、ただ見て帰っていきます。

ほんとにもー!どうにかしてよー!そこら辺のことさー!今でもこんな無神経な感じでやってんのかなー??

 

ちょっと冷静さを失いました。すみません。

 

で、今回のお話、分娩台の上で。

私はひたすら、ひとりでホゲーっとしていました。

旦那さんは病室に帰され、赤ちゃんがキレイに拭かれたり、体重身長計られたりして、私の顔の横に連れてこられるまでの、ホンのわずかな時間、ただホゲーっとしていた私の耳に声が聞こえてきました。

 

お母さんは、単なるドアだからね。

 

と言うんですよ。

 

その時はとっさに、今私が生んだ赤ちゃんの声なのか?とおもっちゃったんですよね。

喧嘩売ってんのかな?宣戦布告か?

と、思っちゃったんですよね。その時とっさに。

 

でも、違うな。とすぐ思い返しました。

声の質が、とても落ち着いていて、女のような男のような判別できない感じで、尖った感情とか余計な圧力のない印象で、純粋に説明してくれてるように思えたからです。

 

お母さんは単なるドアにすぎなくて…

 

本当は人間て、何もなくポッと出てくることができるんだけれど、

 

 人間は物質の社会に住んでいるでしょ?

 

だから、それだと自分たちが理解できないから、妊娠、出産、という経過を経て生まれてきてるんだよ。

 

だから、お母さんは、「お母さん」じゃないからね。

 

ドアにすぎないからね…

 

 

 

物質の社会って、何だ?

 

何言ってんのか、芯のところを理解する事がその時はできませんでした。

 

んー、だけど、この二十年の間、子供とはじめて生きてみて、子供の成長をまじかで見てきて、その声の言わんとするところが、少しは理解できるようになったかな、と思います。

 

なんだか、長時間の出産という初めての非日常体験のすぐあとだったので、その後の色んな非日常的なことも、たいして不思議にも思わず、疑わずに、へー、そうなんだ、といともあっさり受け入れて、今日に至っています。

 

そしてここにきて最近思うのは、あの声は、今の私が、あの出産初体験の私に言いたかったことが、あの時の私に届いちゃったんじゃないかな?

 

という気がしています。

 

そんなことってあるのかな?

 

 

【追記】

茶柱を出産した産婦人科病院は、そこそこ人気のエリアにありました。

病院は最寄駅から3分ほどのところで、とあるデパートの裏手の路地に面してあったのですが、今では、その山川産婦人科病院(仮名)は、 おしゃれな飲食店がぎっしり入った、山川ビル(仮名)になっていました。

先日、茶柱と久しぶりにその街に降り立ち、しばらくそのビルの前でしみじみしました。